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20 川俣水路開さく砕 麦原345番地の1(麦原庵庭)
明治27年(1894)真の干害はひどく,農作物の収穫は皆無といってよいぐらいであった。
これを磯として,遠く天保年間(1830~1845)から叫ばれていた用水設立の夢を実現しようと立ちあがった人々があった。
川俣水路創立発起者としての松村由助,藤原初三郎,工藤貫一等であった。また,開さく当時の川田村長としての佐藤武五郎の功も語られている。
川俣用水は,水源を現在の美郷村川俣から得たものであるが,当時の百姓たちは多額の費用負担に非難は大きかった。
これらの先覚者たちは,迫害にたえ,この用水の価値について説き,そしてその完成へと努力をした。
測量は明治29年(1896)に,着工は31年(1896)6月に,そして完成が32年(1899)6月29日にと,それぞれ記録されている。
この用水完成のため,100ヘクタール以上の水田がうるおされることとなったのである。
大正5年(1916)12月に,これら先覚者の徳をしのび,開さく記念碑が建てられた。
花崗岩の碑には「万世永頼」の文字が刻まれているが,これは蜂須賀茂韶の筆によるものである。