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4  高越寺  木綿麻山3番地

 宗派真言宗大覚寺派 本尊金剛蔵王尊 檀徒なし。
 高越寺は海抜1133メートルの高越山頂にあり、摩尼珠山護国寺、昔は宝珠院、別に西山上または蓋山ともいわれた。
寛文5年(1665)13代住職宥尊の私記によると、天智天皇(661~671)の時代、役の行者小角によって開かれたと書かれている。また由来によれば、延暦10年(791)僧空海が高越山に来て、諸堂を建立し、真言宗を開いたという説もあり、その後、高越山が国家の平和、家内安全、病気平癒の祈祷所として、重要だったともいわれている。
 また、各所に行場のあることや、高越山全体が山城をなしていることから、修験者の修道場だったとも考えられる。
 足利尊氏の時代(1338~1358)、阿波山嶽武士が細川和氏にそむいて、この高越山によったという説も伝わっている。
 神仏混交時代(神道と仏教は別のものではなく、寄り合って栄えるという考え方)には高越権現と呼ばれたが、明治2年(1869)神仏分離令によって、高越神社と分離して高越寺となった。
 昭和14年高越山は、山門、鐘楼を残して全焼した。その後、日華事変、第2次世界大戦のため復旧は進まなかったが、終戦後、住職の努力と信徒の奉仕によって像目し、本堂、庫裏、護摩堂、拝殿が再建され、人々の信仰を集めている。7月18日「18山」の役行者会には多くの修験者が登山し、火柴燈護摩が行われ、当日は女人禁制(19日朝になるまでは女子の参拝が許されない)が、今日まで守られている。
  当寺で重要文化財に指定されているものに「涅槃図」がある。釈迦如来臨終のようすを画いたもので鎌倉時代のものといわれている。
 山門あたりからの眺めはすばらしく、東は遠く紀伊の山々を望み北は讃岐山脈を越え瀬戸内海を見ることができ、四季を通じ参拝者が絶えない。


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